昨日今日と同じような状況を一度だけ体験したことがある。それは1980年の12月8日だった。きっと日本では12月9日だったに違いない。
ラジオから銃弾に打たれて死んだロックスターのニュースが流れてきて、どの放送局も全部その追悼番組みたいになった。生前の彼の人柄や功績や栄光が紹介され、インタビューされた女子高生がラジオで泣いていたりして、訳が分からん連中の馬鹿馬鹿しい騒ぎに胸が痛んだ。極端な言い方をすれば、自分の好きな人を穢されたくらいの気持ちになってなりやりきれなかった。
もちろんわかってくれた奴はいる。受験に失敗して親元を離れ、一人下宿から予備校にかより、直前に迫った共通一次の対策で大変だったときだ。同じ下宿の友と、その日は朝方までいろいろ話をした。馬鹿馬鹿しい番組が続く中、唯一、FM番組サウンドストリートで、渋谷陽一と松村雄策が、やはりコイツらだけはわかってるなと唸らせる抜群の選曲で黙って流し続けたJohnの歌声そのものが救いだった。
その30数年前の若き日と同じような気持ちを今僕は感じている。
天才で、ビジョナリストで、プレゼンテーションがうまく、凄いものを作って、世の中のためになる立派なことをしたから彼を好きなわけじゃない。いじめっ子で、悪ガキで、平気で人を侮辱するくせに自分が言われるのには弱くて、虚勢を張ったと思ったら落ち込んで、ときにはみっともなく愛を欲しがり、そして心の奥には深い悲しみを隠し持っている、そんなところをすべて含めて好きなんだよ。(混ざってるけど言いたいことわかってもらえるだろうか)
2006年に、Johnをモデルにした全部作り話の小説を読んで、ヨーコのおかげで彼が今や「愛と平和の伝導師」になってしまったことへの違和感について書いた日記のことを思い出した。美化するなよ。妻だからって何をしてもいいわけじゃないんだぞ。
引っ張りだしてきたので、久しぶりに日の目を見させることにする。
2011/10/07
ウランバーナの森(2006年05月10日23:44)
書評のようなもの
精神科医の伊良部が出てくるシリーズがとっても気に入ったので、他の作品も読む。
ウランバーナの森のウランバーナとは、要するに盂蘭盆会(うらぼんえ)のことだ。サンスクリット語ですな。お盆に霊が返ってくる話にしては、なぜか主人公は我らがJohnである。曰く、Seanが生まれたことを契機に主夫になることを決意し、何の創作活動もしなくなってしまったJohnは、夏休みを日本の軽井沢で過ごした。それだけの事実とマニア走っているエピソードをテーマにしてJohnの精神世界に触れていく。
もちろん本物のJohnが本当にナイーヴで優しくて自分で自分を傷つけてしまう人間だったのかは僕らの誰も知らないさ。でも、小さい頃から悪ガキで、片っ端から人を傷つけてばかりいて、心身ともに容赦のない徹底的ないじめっ子のJohnが、どうしていつの間にやら愛やら平和を歌うようになったのか?その後どうして自分の存在を薄くしようとしたのか、でもまた帰ってきたのか、そんなファンとしては触れられずに来た疑問を作者ながらに解決しようとした作品なんだろう。
小説の中のJohnだけど、多少手法が気に入らない部分はあってそんなに良い作品とは思わないけど、僕はJohnの気持がわかるよ。悪いところも弱いところもあって、虚勢を張って、寂しくなって、みっともなくて、でもそういうのも含めて僕たちはJohnが好きなのさ。彼はお盆に軽井沢で救われる。そしてまたStarting Overしようとしたんだ。
愛と平和なんて彼のほんの一部の表現方法さ。同じところから発する同じ種類の思いが母の歌になったり、嫉妬の歌になったり、妻や息子を思う歌になったり、平和を求める歌になったりしただけだ。
彼が何を成し遂げたのかよりも、彼が何を思ってそうしたのかの方が大切だ。彼が思う、その思い自体が彼の存在そのものなんだ。愛と平和の伝道師なんて言われるのは糞喰らえだ。
弱い、けれどもその弱さを外に出せる人、ぶつかったり苦しんだりもがいたりうがうがしながらみっともないけど前に進む人、優しさだけは絶対に変わらない人、ソウイウモノニワタシハナリタイ。